僕の家には書斎がある。
同期が謎ルームと名付けたその部屋は普段全く使用しておらず、なんなら誰かが隠れて住んでもバレないくらいにはほったらかしになっている。この部屋には僕が大学院時代に買い込んだ技術書が山積みになっている。新卒の時に読んでおいてくださいと言われた本も、かつての上司が執筆した本も、大学に戻って学生に読ませた本も、同期が引っ越しに伴って譲ってくれた本も、まだある。
研究の後遺症でずっと思考が止まらない脳になっていたのがようやく治ったのは今年の1月の事だった。あれから5カ月が過ぎ、僕は隣町の事務員としてずっと住んでいるこの街にお菓子を配送している。行き帰りのスーパーに僕が出荷した商品が並んでいるのを見るのが最近の楽しみである。
ところで、まだ僕はこのIT業界で成功体験とかいうものを積んだことがない。元々ゲームクリエイターを目指していたが、高校時代スマホが急激に普及して、僕が幼い頃感じた喜びはすっかりレガシーと化してしまった。受験勉強もしていなければプログラミングも電子工作も10代で触れない環境で、ギリギリ僕でもついていけるかもしれないと半ば妥協で選んだ題材がネットワークだった。置かれた場所で咲く努力は、序盤は実った。しかし100人の研究者の前で登壇した後に理研のお兄さんと談笑したあの景色が僕のピークで、そのあとは燃え尽きた体で延々と図書館と近くの本屋を徘徊し、どの技術書も読めないとひたすら焦り、嘆いていた。あれ以上の刺激がないと何をやっても達成感を得られない身体に変わってしまってから、何をやっても面白さを感じられなかった。今日までそういうことを話さずここまで来た。
思えば20歳かそこらで環境が変化したところでついていけるはずもなく、そこで踵を返す恐怖にも勝てずにただただ上ばかり見ていた。どこまで行ってもどこまでやっても、これで僕は成功したと思えなかった。今以上に身体の個体差を努力で埋められるはずだと信じて疑わなかった。能力主義を心から信奉していた。
僕はこの夢を諦めたほうがいいのだろうか。しかし最近になってようやく頭がクリアになったからか、それとも一度諦めて社会人基礎力が0からつき始めたからか、この前全く読めなかった技術書の一部が読めるようになった。やっと読解力が変わったのだろうかと少し嬉しくなった。しかし今日仕事が終わってもう一度読み漁ってみると、その感動ほどインプットすることはできなかった。
ただ何か読める本と読めない本の違いのようなものを感じて、これはヒントになるのではないかと思った。どうも昔の僕は事典的な技術書を好んで読んでいた。それは金もなければ稼ぐ力もない僕にとっては魅力的で、しかし何かを作業するための本ではなかった。というより、当時から社会人になったらもっと実益に即した作業じみた本が読めるようになるんだろうな、という気がしてならなかった。本当に業務で使う為の、身内の人間がその仕事の事情に内通するための血肉とするための本である。研修や基礎固めに使う教科書ではなく。
色々と仕事を渡り歩いて、どこで頼られるにしてもとにかくその場の事情に内通することが重要なのだと気が付いた僕は、この「とにかくやれ」という空気が染みついた本を読む方がいいのだろうなという気持ちに今日変わった。そして、これまで通り教科書的な、事典的な、書いている人が気持ちよくなっているような本というのはおそらく2通りあることに気が付いた。つまりこちらが読んでいてエネルギーをもらえる本と、エネルギーを吸い取られる本である。後者は読んではならない。体調が一瞬で悪化する。
色々と合わない本は売り払って来たが、まだこの書斎には邪念が残っている気がする。物思いに耽るのは30分が限界だ。僕の本当の気持ちはどこだろう。
追記
今年も秋口になって例の好奇心旺盛な自分が戻ってきた。いつもこの時の自分をどう操縦しようか迷い、去年はどこか別の場所にも書いたが色々やってほとんど失敗した。とはいえあれがなければ今年の堅実な僕はいない。
割と僕は投資をする方だ。学生の時買い込んだ技術書もあの時の経験もみんな一生分の投資で、リターンが返ってくるのはこれからなんだとなんとなく今日になって思えるようになった。というより、そのつもりで当時は分厚い本を買っていただろうに、すぐにでも分からないとだめだ、目の前の環境に適応できない、課題を超えられないと焦り、その真の僕にとって不要な焦燥感にずっと駆られながら生きてきただけではないかと気付いた。ずっと手放せずに来たそのへんにある本を、もういちど一冊ずつ読んでいる。装丁も文体も著者の生き方も好きな本ばかりだ。一生かけても彼らにはなれないし、もうなることもないが、その半分くらいになれたら、僕としては大成功ではないかと思う。
そして、おそらくはなりたい自分になれている時、やりたい技術をやっていて嬉しい時、少しでも誰かの力になれた時、僕は十分に幸せを感じられるのだと思う。この業界に身を埋めて、毎日その道のことだけを考えて生きる日々は、僕には早かったのだ。そして、技術に触れれば触れるほど見えなくなっていた僕のなりたい自己像は、決して急速な技術の変遷によって煙に巻かれるようなものではなく、また自分が今触れている技術に自己像を100%投影したり、そこに依存したりするようなものでもなく、もっと直接触れることのできない、しかしどこかに必ずいるような不変の存在のいくつかであり、日々の景色の変化の中でも絶えず実体がそこにあるものであることを、僕自身が決して忘れてはならない。