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ジャズ屋が技術の話をするところ

あれは妬みだった

最近ネットに精神科医の先生がよく動画を上げてくれるので、随分とこころの状態を自分で分析するのが楽な世の中になった。どの動画か忘れたがその中に妬みについて触れている箇所があって、ここ数日妬みとは何かについてずっと考えている。


技術者としてできるものなら復職がしたい。今の目標である。しかし、具体的な目標をイメージするとどうしても昔を思い出して胸が苦しくなる。こんな精神状態で仕事などできるわけがないというくらいに激しい感情が湧く。なんだか言語化さえもできないものに憧れて、言語化さえできないのだから実力など足りなくて、ただネットワークのことだけ考え続けられた、なんなら今の日本のインフラを支える偉大な人達と一緒になれる機会だって何度もあった。その度に自分はどんな道を歩んでどんな仕事をしておけば満足するのか、考えては軸足がぶれ、その圧倒的な実力差に落ち込み、毎日がそれだけで終わっていった。

今朝起きるとあの頃の感情が蘇った。あの景色が輝かし過ぎて、強く望むと却って他の居場所で頑張る気力すら出ない。今でも何かきらきらした上澄みだけを望む自分がいる。ここ半年ほど僕の思い描いていた路線とは全く違う努力を積み重ねて必要なものを確かに手にした自分がいるのに、また過去に戻るのかという落胆があった。今日が平日だったらたぶん仕事に行けていない。そのくらい胸が苦しい。

僕にとって順当な努力とは何だったのか考えることがある。機械が得意でもなければ特別好きでもない。そんなにきらきらしたもんじゃないと割り切れば続けられたのかもしれない。しかし一方で楽しそうに努力している人が隣にいる。典型的な妬みを抱く環境だとずっと気づいていたのに、自分のどこがためなのか言語化する作業が果てしなくて、途方もない時間を感情を処理するだけの時間にしてしまった。またあの展示会に行きたいとホームページを見るも、そこに映る社会人の顔つきはまだ僕には果てしなく遠いように思えた。


ところで、環境は人を本当に強くするのだろうか。

心理学では自分の外にある環境の影響で自分は成功体験を積めたのだと考えることを外的帰属という。上記の命題は正しいが、その感じ方に問題があるとどうしても妬みの感情を持ってしまうらしい。つまり、自分の努力のおかげで自分は強くなったのだと思うようにしなければ、「あの環境にいたから」「あの人がいたからたまたまここまで来ただけ」と思うしかなくなり、それは自分のおかげと感じられる自分とは程遠いのである。

強い人の下につけば自分も強くなれると高校で学んだのでこの道に入ったが、それが安直だった。引っ張られるだけ引っ張られて身体が引きちぎられるような経験をしてしまった。結局それは僕に高すぎる理想と嫉妬、手順書のない膨大な努力を押し付けてきた。これをこれからどう処理するのかはひとえに僕の課題なのである。そしてすべての経験を選択する過程で揺るがない自信を付けなければならない。僕の個人的な安心の為に努力がしたい。今はそれくらいしか考えられない。